陣原の占部氏/北九州市八幡西区(1)
2014.08.31
昨日は八幡西区の瀬板の森近くに住んでおられる占部さんたちを訪ねてみました。
ここの占部さんたちはもともと陣原に住んでいましたが、焼け出されてここへ来たということです。
ご老人の話によれば、陣原から移った時期は、その方の祖父の代ということでしたが、お寺の住職もよくわからないとのこと。
陣原の古い墓所には墓が20~30もあったといいますから、陣原にはかなり古くからいたものと思います。
家が遠くなって、墓の管理もなかなか大変になり、今の住まいの近くに移されたそう。以前訪ねた時に聞いたことですが、親戚のおばあちゃんから、「昔このあたりには池田、占部、ムネヒロ(宗広?)さんの三軒しかなかった」と聞かされたそうです。
ここの占部さんたちは、こいのぼりは立ててはいけないことになっているそうです。その理由ですが、昔占部は侍で、首を切られて粽(ちまき)に巻いて流されたという言い伝えがあったと聞きました。又、平家の落人か何かで、こいのぼりを立てたために武家の家とわかって殺されたとか…。とにかく理由は今やさだかでないのですが、いまでも風習は続いているようです。
それと、一軒のお宅では、山田地蔵尊の春季大祭に毎年足を運んでいるそうです。山田地蔵尊、そう、宗像市山田にある増福院のことです。宗像家のお家騒動で犠牲になった菊姫と母、侍女四人を祀っています。山田騒動のお話は宗像で知らぬ者はいないと思いますが、北九州市まで来ると、情報もないのか、ご当主はあまりその話をご存じないようでした。
この話で思い出したことは、博多に黒田家に仕えた占部忠右衛門の子孫がおられますが、その家でも代々山田地蔵尊を祀っているそうです。有名な貝原益軒が書いたという『増福院祭田記』には、延宝8年(1680年)8月18日に亡き菊姫のために祭田を買い、増福院に寄付した人々の名が記録してあるのですが、その筆頭に出てくるのが占部下総守貞康より3代 占部忠右衛門という人なのです。
この家の紋は桔梗でしたので、もしやと思い家紋を聞くとやはり桔梗ということでした。黒田家に仕えていた占部さんとどうやらつながりがありあそうです。(2)に続く...