朝倉の占部氏(4)
2014.11.07

朝倉の占部氏、すなわち大城長者の関連として英彦山について書いておくことにしました。私自身これまで英彦山の歴史を知りませんでしたので。


<英彦山について>

彦山の開山は6世紀にまでさかのぼります。その名はご祭神天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が日の神天照大神の御子であることから「日子山」と呼ばれていたことに由来するそうです。「日子山」が「彦山」になったのは9世紀に入って嵯峨天皇が宇佐弥勒寺の別当であった法蓮上人に勅命を下した時からです。

10世紀頃までには僧侶や修験者の数も増えて組織化され、次第に大きな勢力となっていきました。彦山権現信仰が生まれ、天皇家ばかりではなく武士達にも広がっていったのです。鎌倉時代には、山内に集落ができ、修行形態も完成したといわれています。それまでは弥勒寺支配の影響もあって、天台宗の霊山として成長してきた彦山でしたが、次第に神事が多く行われるようになり、神道系山伏が増えていきました。

山伏達が定着するようになると、それらを統括する座主が現れ、座主による統治がはじまりました。元弘3(1333年)には、後伏見天皇の第6皇子である長助法親王が彦山座主に就任することになります。天皇家から皇子をお迎えすることにより、それまで輪番制だった座主が世襲制となり長助法親王から舜有法主まで14代の座主が黒川に館を構え、そこから彦山を統治しました。

神領内では新田開発が行われ、交易や産業の振興によって発展していきます。更にその領地を守るために武装化し、彦山を中心とした治外法権自治世界が作られていきました。

戦国時代には永禄11年(1568年)、天正9年(1581年)に豊後の大友氏に攻められ壊滅状態となります。更にその後、豊臣秀吉が九州攻めを開始。抵抗し切れずに屈しますが舜有法主の死により結局神領は没収されてしまいました。直系はここで断たれます。座主職は15代以降も引き継がれましたが、彦山にもどった為、黒川院の役目は終わりました。

彦山自体は江戸時代に入ってから大友氏との戦で壊滅した大講堂が再建され、再び修験集落が現れました。細川忠興や黒田長政の寄進もあって彦山は再興したのです。長政は上座郡黒川300石を寄進しました。

ちなみに彦山が英彦山となったのは享保14年(1729年)霊元法王により「英」の一字を賜ったときからだそうです。


<高木神社>

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彦山は神領を明確にすることを目的として大行事社を置きました。そのうち七大行事社というのは、日田郡 夜開(よあけ)郷林村の大行事、又鶴河内村の大行事、筑前国上座郡福井村の大行事、同郡小石原村の大行事、豊前国田川郡添田村の大行事、下毛郡山国郷守実村 の大行事そして、上座郡黒川村の大行事です。大行事社というのは、もともと、弘仁13年(822年)に羅運上人が48か所に高皇生霊神(高木神)を勧請して神領七里四方に鎮守として設けられたものだそうですが、そのうち7大行事社は山麓大行事社といって、神領の最も外側で参道の入り口ともいえるところに作られているそうです。高皇生霊神(高木神)を祀っているので高木神社というのですね。

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これらのことは添田町の史料から抜粋してきた内容ですので、興味がある人は読んでみてください。




先日高木神社の林輝雄宮司さんを知る方とお目にかかりました。その方は、現在黒川院の発掘にかかわっているそうです。黒川の高木神社の近くに昔黒川院がありました。(黒川御所とも言われています。)

彦山の座主として下向された後伏見天皇の皇子がここに建てたという黒川院です。長らくその子孫たちが彦山を治めていたことは前述しましたが、彦山の近くでなく、何故こんな遠くに・・・・? なんと、英彦山が女人禁制で子孫を残せないため、ここに黒川院(黒川御所)を建て、行事の時はここから行列を立てて彦山に向かったといいますから驚きです。

福岡藩の二代目藩主である黒田忠之の時に、黒川院歴代墓地を含む黒川御所関連施設を徹底的に破壊したといわれます。実際14代目の舜有法主の墓は、黒川字宮園の迫にあるといいますが、これ以前の座主の墓が現在まで見つかっていないのはその時破壊されてしまったからなのかもしれません。

とにかく跡形もないので黒川院の話はほとんど伝説になりかけていました。昔の建物の名が狭い田んぼにつけられていることや御館・御下屋敷(おしたんやしきと読むらしい?) という名など、不思議に思いながらも、地元では「まさか・・・」みたいな気持だったといいます。 最近になって調査が進むにつれて、びっくり。掘れば何か出る...といった感じで、遺構だの、菊の紋印の土器や青磁・白磁等... 本当にとんでもないものがあったという証拠が続々。

それにしても、何故黒田忠之はそれほどまでに憎んだのでしょうか。黒川院の初代は宇都宮家と縁戚で、長政が宇都宮氏を討ったことから怨恨があったという話も聞きましたが、一方黒田長政は豊前にいたころより彦山を大切にしたといわれ実際300石の寄進もしている。

色々説はあるようですがはっきりしたことはわかりません。何分にも史料がないのだそうです。英彦山の領域ですから、英彦山に引き上げたとも推測されますが、そんな恐ろしい事件があったので、黒川院について語ること自体危険だった時期があったのかもしれません。市史関係にも高木地区の記事がなく、そのことを不思議に思っていたところでした。

このあたりには安倍貞任の伝説もあり、何かと神秘的です。掘れば何かある…ところが史料がない。ますます興味がそそられます。

占部氏の大城長者も、莫大な財があったことだけは事実のようです。明治のころに大城から嫁に行った人の話でも、腰元が2人ついていったとか、水に手をさらさらと浸すほどで炊事などはしたことがなかったとか。又朝髪をとかしつけるまでは顔を見せなかったという話もにわかには信じられない話ですが、実母がそうだったという証言があるので事実と認めざるをえません。

莫な財がどこから来たのか。お家再興の資金といいますが、宗像家は氏貞が亡くなる8年ほど前に本殿を建て直し、その資金調達にも苦労したくらいですからどうでしょうか。秀吉によって、お家断絶となり、領地は没収、氏貞の後室にわずかな領地が与えられたのみでした。その後も、秀吉の身内で小早川隆景の養子となった、小早川秀秋によって相当苦しめられており、とても財が残ったとは思えません。

更に、高木の殿様という名もどうでしょうか。江戸時代、藩主以外にそのような呼び方をして睨まれはしなかったのでしょうか。この地域には占部氏のことに限らず、眠っている秘密が多くあるような気がします。

果たして真実はどこにあるのか。黒川院の発掘と共に謎を追いたいと思います。

廃校利用 山里の美術館「共星の里」のサイトに発掘の詳しい記事がアップされていましたのでリンクしておきます。


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