陣原の占部氏/北九州市八幡西区(2)
2014.09.04

陣原にあった墓の移動を弘善寺に頼んだと聞いて、さっそく弘善寺を尋ねました。


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昔、実家が穴生にあったので、小学校は穴生小学校、近所だった弘善寺は格好の遊び場で、その裏山には我らの秘密基地がありました。

境内に穴生小学校跡を見つけましたが、これは昔の寺子屋の跡だそうで、後に近隣3つの寺子屋が合併して上津役に小学校ができたそうです。わが母校はそれより、ずっと後にできたらしい。

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今NHKの大河ドラマは『軍師官兵衛』を放映していますが、その中に栗山善助・母里太兵衛とともに井上九郎右衛門という人が出てきます。ちょっとクールで、知的な感じの人物です。

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この井上九郎右衛門は、後に井上周防守之房を名乗り、晩年は井上周防守道柏と号しました。黒田24騎の一人で、黒田藩の二番家老です。占部家系傳には「勇猛果敢で、人望も厚かったらしい」と書きましたが、実際は武功をたてて勇猛だったというより、官兵衛の知略の部分を受け継いでいたのではないかと住職がおっしゃっていました。



弘善寺にはこの井上道柏(九郎右衛門)の妻と娘が眠っています。妻は長政の母である光の実家、播州志方城主櫛橋氏の娘です。娘は黒田家に嫁ぎましたが若くして亡くなったのだそうです。
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九郎右衛門は、黒田長政の筑前入国の折、黒崎城の築城を命ぜられて城主となり、遠賀郡一円で一万六千石を領しました。元和元年(1615年)、一国一城令が発布され、 黒崎城が廃城となると、弘善寺の末庵、舎月庵(八幡西区陣原)に移り住み寛永11年(1634年)11月22日に亡くなりました。

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<二人の占部忠右衛門と井上周防之房>

現在残っている占部家の系図にはこの頃忠右衛門俊安という人がいて、寛永10年(1633年)「井上周防入道道柏」に追従して遠賀郡黒崎に住んだといいます。


実は、同時代に忠右衛門と名乗る人物がもう一人。こちらは、忠右衛門寿好です。菊姫のために祭田を買い、増福院に寄付した人物で、直系は代々黒田家に仕えて明治を迎えました。こちらの忠右衛門の場合、本人についてはよくわかりませんが、父親がやはり井上周防之房入国の折、之房に属したとの記録が残っています。この二人が、同一人物か、別人かが長年解けずにいたのですが、近年、二人が別人であることがようやくわかりました。

岡垣にも桔梗紋の占部さんが残っていますが、陣原の占部さんとともに、後者の忠右衛門寿好と関係があるのだと思います。どちらにしても、このあたりは井上周防守之房の領地ですので、井上家との関係があったと思われます。

井上家では之房(道柏)が隠居した跡を嫡孫の主馬正友が継ぎましたが、2代目の主君忠之と対立した栗山大膳(元善助)の娘を妻としていたため出奔。その領地は叔父の之顕が継ぎましたが、その子の代に再び領知没収となり断絶しました。



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