朝倉の占部氏(1)
2014.09.12

先週末お会いした占部さんには、黒田藩に仕えた占部忠右衛門の系図の解釈をお願いしてありましたが、やはり、崩し字がかなり癖のある字らしく、難しいとのこと。残念ですが、中々興味深い内容なので、ここであきらめるわけにはいきません。


ところで、話の中で、痲氏良城(左右良城・までらじょう) の話が出ました。黒田長政が筑前入国の折に、黒田二十四騎の一人栗山備後守利安に一万五千石を与えて城主としました。栗山利安といえば今放映中の大河ドラマ『軍師官兵衛』でよく登場する、栗山善助です。


井上九郎右衛門の黒崎城と同様、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となりました。この近くの朝倉市杷木志波に円清寺という禅寺があります。この寺は利安が黒田孝高の死後、菩提を弔うために領内に建立した寺で、寺には官兵衛、長政、栗山利安の肖像画があるそうです。


上座郡左右良は栗山家の領地でしたが、栗山利安の息子栗山大膳が黒田騒動で領地を召し上げあれ、原伊予守種良が引き継ぎました。


そんな話をして帰宅すると一通の手紙が来ていました。朝倉の占部さんからでした。お母様が亡くなられた由。私たちも大変お世話になった方です。この手紙にも又しても円清寺が出てきたのでびっくり。


この方は大城長者物語のところで記事にした占部氏の末裔です。実際先祖代々住んでいた村はもっと北の山の上にあるのですが、不便なので下に降りてこられていたのですね。


地図を見ていると不思議にも、円清寺や痲氏良城 の近くには比良松村があります。ここは、東連寺藩に仕えていた占部の子孫が、故あって、千葉弥兵衛を名乗り住んでいた場所で、この千葉弥兵衛所蔵の文献が今でも多く残っています。もとは占部秀安といい、親の代より綱政公に仕えました。


長政の後、2代忠之、3代光之、4代綱政と主君の怒りをかって出奔した家臣の話が多く残ります。秀安も名を隠し千葉弥兵衛と名乗り身を隠しましたが、一体何があったのでしょうか。その後弥兵衛は古賀家に養子に入り一時古賀を名乗りましたが、後に占部に復姓しました。この人の子孫が、大城長者物語の主人公です。


大城長者物語を聴いたとき、平松(比良松)古賀大庄屋家を頼ったところまではいいのですが、何故お家再興のために、こんな山奥に移り住んだか理解に苦しみましたが、今回これらの話を聞いて、ただの山の中ではなかったことを知りました。


それにしても、24騎馬の井上周防守之房(九郎右衛門)と吉田壱岐守長利と占部氏の関係は調べたことがあるのですが、今回栗山家とのつながりも考えなくてはいけなくなりそうです。隣の浮羽出身の知り合いによれば、近隣に栗山姓が今でも残っているそうです。栗山家の子孫でしょうか。


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