津屋崎の占部氏
2014.10.19
津屋崎出身という方にお会いしました。
津屋崎町というところは知れば知るほど奥深いところです。(現在は福間町と対等合併し、福津市 )
津屋崎の新原・奴山古墳群は有名です。
特に宮地嶽古墳は、何度行っても神秘的で、お気に入りのスポットです。地下の正倉院と呼ばれるこの地からは、国宝級のお宝が続々…これらの持ち主をめぐって論争が続いていますが、いずれも証拠不足で未だ決着がついていません。
古代から続く歴史の神秘に加えて、津屋崎の占部さん達のおかげで、今の津屋崎とは全く別の顔があったことを知りました。
室町時代に勝浦から宗像宮へ塩を納めていた記録が残っているそうですから、製塩は古くから続いていたようです。江戸時代に入って、先に勝浦塩田が完成していましたが、宝永2年(1705年)に幕府の許可を得ると津屋崎塩田開発が始まります。
ところが、津屋崎の場合、入江の干拓着工から塩田での塩生産開始まで勝浦の5倍の時間を要しています。福津市教育委員会南時夫さんによれば(福津の歴史・文化福津第8号)これは、西日本一帯を襲った享保の大飢饉のせいで労働力が確保できなかったからではないかということです。この享保の飢饉は1732年から1733年にかけて発生し、福岡藩内の餓死者は4万人或は10万人とも言われているそうです。
その後、寛保元年(1741年)津屋崎塩田の造成が始まり、大社元七(おおこそもとしち)という人の手によって津屋崎の塩は一躍有名になります。江戸時代の勝浦・津屋崎を合わせた塩の生産量は筑前全体の9割にあたり、塩は宗像・糟屋の近隣はもちろん、博多・福岡方面、遠賀・鞍手方面をはじめ他国にまで運んでいました。
塩田の開発から生産、販売と、津屋崎には多くの人々が集まってきます。又、塩の輸送に際して、海運業が盛んとなり、五十集船(いさばせん)と呼ばれる商船が、瀬戸内海や日本海沿岸まで塩を運び、帰りに海産物や衣類、薬など様々なものを運んできました。
一方、黒田長政の家臣だった佐治家が武家として仕えずに商人となって始めた酒造業も津屋崎の代表的な産業となりました。こうした産業が津屋崎を筑前有数の浦に押し上げたのです。この頃の名残をとどめている街並みとして、『津屋崎千軒』が今福津市の観光スポットになっています。
明治23年に博多―赤間間が、明治24年に門司―熊本間に鉄道が開通したことで、海上交通が衰退。更に明治44年には塩の専売制により塩田廃止となり、津屋崎は衰退しました。
宝暦3年(1753年)8月宗像郡上八村より占部秀勝が渡村の入り庄屋として入ります。 1889年(明治22年)に町村合併で津屋崎村に含まれました。津屋崎千軒のある場所とは入り江を挟んで半島側の対岸になります。
いよいよここからが津屋崎の占部氏の始まりです。